「自分の命は、自分で守るしかないんです」そう語るのは、千葉県旭市にある「旭市防災資料館」の職員であり、語り部として全国をまわる宮本英一さんです。
千葉県北東部に位置する旭市は、三度の津波で壊滅的な被害を受け、多くの尊い命が奪われました。それでも宮本さんはこの地で「語り部」として津波の恐ろしさと命の大切さを語り続けています。
なぜ語り続けるのか。なぜこの地にとどまるのか。その答えを探るため、CDエナジーは宮本さんに取材を行いました。

1. 地震が起きた日。予想外の津波との遭遇

2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生。旭市飯岡地区に住む宮本英一さんは、強い揺れを自宅で体感しましたが、すぐに津波の危険を実感することはなかったそうです。
「当時、防災無線では『津波が来るから避難をするように』と何度も流れていました。
けれど私は“九十九里浜には大きな津波は来ない”と思い込み、家の庭から海を見ていて避難しませんでした。
その理由として、小学生の頃に経験したチリ津波でも堤防を越えなかったこと、九十九里浜にはリアス式海岸の東北地方と違って広い海岸なので大きな津波は来ない、と思い込んでいました。チリ津波以降も、警報はでるものの、押し寄せる津波は三十センチから五十センチ程度だったこともあって、この地域に堤防を越える大津波は来ないという思い込みが大きな反省です」と語ります。
それと津波が繰り返しやって来ることと、一回目の津波より後から来る津波が大きくなることも知りませんでした。
防災無線では「津波が来るから避難を」と繰り返し呼びかけていましたが、学校などに避難した人達も、津波は一回で終わったと思い、自宅に帰って来た方もたくさんいた、と聞いています。
一回目の津波は家の前の堤防をこえませんでしたが、離岸堤防が設置していない飯岡漁港方面の堤防を越えて津波がザーとやって来て、海岸道路を水浸しにしました。
私は、地区の区長をしていたので、一回目の津波のあと、もう津波は来ないと思い、せめて自分の地区の海岸道路だけでも片づけようと、避難所などから帰って来た人達と漁港方面から流れてきたゴミを拾っていました。
海岸清掃が終わり、何人かと堤防にあがって海を眺めていました。海の水が離岸堤防の先まで引いていました。
すると、漁港のほうから「大きな津波が来るぞ!」と言いながら走って来る人がいて、その声を聴きながら皆はその場から離れていきました。私達夫婦も家に帰りました。
津波は三度にわたって襲来しました。しかし、二回目の津波には気づきませんでした。
| 15時50分頃(第1波) 飯岡漁港の堤防を越えた高さ4.5m超の津波が船や車をのみ込み、わずか10分もたたないうちに街を襲いました。 このあと、もう津波は来ないと思い、大勢の方々が避難所から帰ったようです。 16時20分頃(第2波) 高さ2〜3mの津波が到達したものの、海の変化があまりなく、気づきませんでした。 17時20分頃(第3波) 突然、海面が盛り上がり始め、7.6mの大津波が再び堤防を越えて町に押し寄せました。津波はあっという間に引き、数多くの命と暮らしを奪っていきました。 |
家に帰って少しすると、防災無線から「大津波警報、大津波警報、緊急避難・緊急避難・団長命令」という呼びかけが聞こえ、その放送を聞きながら「これは大変なことが起きている」と思いながら避難しようとした時、突然、バリバリッと板塀が壊れる音とともに、ドッと津波が押し寄せました。
私達は逃げながら家の陰に隠れましたが、アッという間に流されて、海水を飲みながら沈んでしまいましたが、かろうじて浮き上がり、家の後ろの道路に押し流されました。流されながら再び水の中に沈んでしまいましたが、再び浮き上がり、目の前にあった壊れた屋根にたどり着き、そこから隣の家の二階に上がって助かりました。私達はそこで一夜を過ごしました。全身ずぶ濡れで震えながら、押し入れの毛布で身を包みながら寒さに耐えたことは忘れられません。
2. 助かった命とその後の気付き
命が助かった安堵のあとに襲ってきたのは、後悔と反省の念でした。
「なぜすぐに避難しなかったのか」「なぜ、津波は来ないと思い込んでしまったのか」
大津波警報が流れるなか、あまり不安な気持ちになれず、なぜか“自分だけは大丈夫”と思ってしまったのです。
翌日からは自宅の片づけと泥出し、そして区長としての活動が始まります。
家の被害に向き合いながら、地域の要望や問い合わせにも応じなければならず、心も体も休まる間はありませんでした。
たった90世帯の地区でも、津波の到達距離の関係で、被災した家と被災しない家がありました。被災しなかった家族は、普段通りの生活が続きます。私達の地区は月曜日に生ごみを出す日となっているので、普段通り生活している人たちが「今日は生ごみを出す日ですが、ごみの集積所に出してしてもいいか」と聞かれるなど、同じ地域でも被災の差があり、日常と非日常が混在していました。
「同じ地域でも被害を受けていない家庭は普段どおりの生活をしていて、生活の温度差に戸惑いました」と当時を振り返ります。
それでも宮本さんは「親戚や友人、ボランティアの支援が大きな力になった」と語ります。
この地に住み続ける理由
今回の津波で一階が大きな被害を受けたが、二階が無事だったことと、建物全体が歪んでなかったことが第一の理由で、二つ目は私の祖先は江戸時代に漁業を営むために紀州からこの地に来て、ずっと住み続けていたこと。また、今の家を壊して他の地区に移るだけの財力がなかったこと。千葉に住んでいる子供たちもこの場所が好きだったこと。最後になりますが、地震保険に入っていたことも大きな理由です。
家族とともに見つめて来たこの海は、突然の時化(しけ)で漁船が転覆してたくさんの命を飲み込み、浸食で堤防が倒れ、チリ津波では漁船が流され、台風の時はランドセルを背負って親戚の家に避難したこともありました。そして今回の津波。海の近くに住んでいると様々なことを見たり、経験したりします。
しかし、穏やかな日に海を眺めると、気持ちが落ち着きます。私にとって海は、最も身近に自然を感じる場所で、体に染み込んでいる「ふるさと」と同じものだと思っていることが、ここに住み続けている理由かもしれません。
3. 防災のいま、語り継ぐ理由

「専門家じゃない。でも、当事者として話せることがあるんです」そう語る宮本さんは、震災から2年後の平成25年から、NPO防災千葉が千葉県の海岸沿いの小学校で行う「災害の出前授業」で語り部として活動を始めましたが、現在は消防庁の語り部として、依頼された全国の市町村に出向いて活動しています。
内容としては、その時に経験した津波と区長としての活動
「区長として現場に立っていたからこそ、“被害を受けた人と受けなかった人の温度差”“制度がすぐには機能しない現実”“避難しなかったことへの後悔”を誰よりも身近に感じました。だからこそ、語らなければと思ったんです。」
語り部になったきっかけは、あの津波で自らが体験したことを一人でも多くの人に伝えたいという思いでした。
そのきっかけとなったのは、津波の日に「お食い初め」をするために来る予定だった孫と、津波の年に生まれた孫に津波の経験を知らせるために、家の片づけと、区長としての仕事の合間に、パソコンのキーを打ち続けました。その途中で、千葉県の土木部の職員OBのNPO防災千葉の方からに声がかかり、県内の海の近くの小学校での出前授業に津波の語り部として参加したことから始まりました。
活動を続けるなかで、子供たちと一緒に聞いていた、先生方や父母の皆様から「実際に体験した話なので、身近に感じられて良かった」と言われることも多く、それが励みになりました。
海岸沿いの小学校の子供たちには「皆さんはこれから少しずつ大人になっていきますが、その途中でいろいろなことが起こります。何があっても生きること、生きてみることを第一にこれからの人生を歩んでください」と締めくくります。
また、防災資料館では「地震などの災害は突然やって来る場合があります。その時、学校にいる場合は先生方が、家にいる時はお父さんお母さんが皆さんを守ってくれます。でも、一人の時は、自分の命は自分を守らなければなりません。そんな時に備えて、家族会議を開いて、いざといった時の居場所などを話し合っておくことが大切です。と締めくくります。
「子どもたちにも普通の人が普通に語ることが伝わるんですよ」と、やさしく微笑みながら語ってくれました。
4.防災の記憶を伝え続ける語り部としての現在

現在、宮本さんは旭市防災資料館の職員としても勤務しており、語り部としての活動とあわせて来館者に震災の記憶を伝えています。
資料館には、地元や他市町村の児童・生徒に加え、災害が起こった時に活躍する、民生委員や消防団、社会福祉協議会などの関係者なども訪れ、被災体験に耳を傾けているそうです。
その方々には、突然の災害に襲われて、その時の区長として経験したことを話します。
「避難所にいる人は救援物資を受け取れるのに、自宅で復旧作業をしている人には何も届かない」そんな不公平感も現場にはありました。災害は津波だけでなく、盗難など二次被害にも及びます。だからこそ、資料館では“津波の恐ろしさ”だけでなく、“想定外の問題が必ず起こる”ことも伝えたいんです」
その時最後に必ず言うことは、災害は時と場所と選ばず突然やってきます。
自分自身が無事でも、自分の家族が被災する場合もあります。
その時は、「自分の家族のことを第一に考えて、地域のためにどういったことが出来るか」日ごろから考えておく必要があります。と言って結びます。
とはいえ、地域の防災意識は震災を機に少しずつ変わりつつある一方、課題も残ってるといいます。
「たとえば、旭市の沿岸部では人口減少が進み、若い世代が少ないため、地域の組織が高齢者中心になっているのが実情です」
それでも「どんなに年月が経っても、津波はまた来るという前提に立ち、語り続けることが大切ことと」そう思って、宮本さんは現在も市の臨時職員として週に数日勤務しながら、依頼された地域に出向いて語り部として活動を続けています。
5. ライフラインの復旧とその記憶
津波が去ったあと、宮本さんたち被災者の前に立ちはだかったのは、生活インフラの途絶でした。
水道は完全に断水し、ガスも使えず、物資も不足していましたが、そんななかでも津波に流されていた時も電気だけは奇跡的に止まらず、街路灯が点灯していたことが、精神的な支えになったといいます。
その時の状況ですが、「屋根に登って振り返ったら、海岸道路の街灯がついていたんです。家は真っ暗だったけど、街路灯だけは点いていたのです」と宮本さんは語ります。
平成の合併前の私の地区の電源は、茨城県鹿島の火力発電所から電気を引いていたため、停電を免れました。また、津波に襲われても街路灯が点いていたのは安定器が高い位置に設置されていたことが、津波による破損を免れた理由のひとつだったといいます。
一方、ガスはプロパンで、津波に流されて供給は止まりました。宮本さんは避難所ではなく自宅での生活を選びましたが、そこで役に立ったのが石油ストーブだったと振り返ります。
「鍋をのせて水を沸かせばラーメンも作れるし、お茶も飲める。電気があることでテレビも見られたし、精神的にも落ち着きましたね」
また、携帯電話が津波の直前に買い替えたばかりの防水仕様だったことも助けになりました。固定電話は数ヶ月使えませんでしたが、携帯電話やメールで最低限のやり取りはできたので、区長として、市との連絡などに大変役立ちました。
「当時は、携帯電話が通じたことは大きかったですね」と話します。
6. これからの防災と、伝えていきたいこと

宮本さんが今、もっとも伝えたいのは「津波は音もなくやってくる」「何度も繰り返し襲ってくる」「地震はいつ起こるか誰にも分からない」という、身をもって経験した3つの現実です。
「津波は、堤防を越えるまでは音がしなかった。音が聞こえてからでは、もう遅いんです」と宮本さんは言います。しかも津波は一度きりではなく、繰り返し襲ってきます。
「1回目で安心して戻ってしまった人が、3回目の津波で被害を受けた方が多かったようです。その経験から、津波は何度でもやってくることと、最初の津波よりあとの津波が大きい場合があることも知ってほしい」と語ります。
また、地震そのものも突然に起こるため、日頃の備えと心構えが重要だと強調します。
「普段の生活をしている時は、津波のことは忘れてもいい。でも、必要なときに思い出して、すぐ動けるようにしておいてほしい」
「災害時には、地域のために役割を果たすことも求められます。しかし同時に、自分や家族も被災者になるかもしれない。その両方をどう守るか、平時から考えておくことが欠かせません」
それが、宮本さんがこれからも語り継いでいく、最も大切なメッセージです。
みなさんもぜひ一度、千葉県旭市の「防災資料館」にも足を運んでみてください。
震災の記憶を未来へつなぐ語り部の声や資料から、命を守るための多くの学びを得ることができます。

